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今  泉  年  表

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 三浦半島基部砂押川の上流に位置する東西北の三方を低丘陵が囲む 谷あい地、地名については弘法大師により止渇していた水が湧き出たことによるとの口碑がある。 もとは鎌倉郡小坂村といい、1933年に大船町となり、1948年に鎌倉市に編入。一丁目から五丁目までが設置されている。

「ウィキペディア」の記述から抜粋)
 鎌倉市の北辺に位置する丘陵地で、鎌倉市の大船地域に属し、北東で横浜市栄区公田町、東で栄区上郷町、南東で鎌倉市二階堂南で今泉台、西で高野・大字大船、北西で岩瀬と接する。
 東に長く延びてからに南に「く」の字型に下る形をしており、西側は主に住宅地として利用され、屈曲部付近にはかつて大船方面の田畑の水源地として機能していた散在ヶ池と散在ガ池森林公園に接する鎌倉湖墓苑があり、その東側は山林やゴルフコース等の緑地帯が続く。南西の高野,大船との境界線には六国見山があり、山ノ内の境界線付近にはハイキングコースが設置され、観光地・緑地保全区域としての一面も持つ。
 南部側の丘陵地帯である今泉台はかつて今泉の一部だったが高度経済成長期に宅地開発が行われ新興住宅地となった部分は今泉台として分離した。
下図緑色の道路周辺は今泉町内会の管轄範囲を示します
今泉航空地図、詳細は下記Google Mapリンクを参照
(謝辞) Google Map 引用

以下の年表は会員所有の出典不明の資料から転載・加筆したものです。

大永1521今泉村は戦国期に見える村名、相模東部のうち大永2年3月7日の 北条氏綱制札写しに、相州岩瀬郷の内今泉村の竹木の事とみえ当付の竹木の伐採を禁じている。 戦国期、後北条の治下、今泉村は明月院の寺領であった。
享禄1528享保5年9月2日の年記のある当付の毘沙門堂(白山神社)棟札 には相州山ノ内圧今泉村と見え、毘沙門堂および吉祥天など修造再興されており、当付が禅興寺領であった事が知られる。当時名 月院は禅興寺の塔頭であった()役帳には名月院の寺領 として三十一貫九百七十文東郡岩瀬郷のうち今泉と記されている。
天文1532
天正1573天正12年11月14日の北条氏直判物には明月寺領井惣門の内、 田地とあり明月院伝蔵主(以心僧伝)に当村などを安堵している。
新編相模風土記によれば江戸から12里・東西28町余り・南北 11町・家数20軒鎮守に毘沙門堂・寺院は浄土宗栄泉寺・東 光院、毘沙門様は源頼朝が上洛の折鞍馬寺から勧請したと言われて いる。毘沙門を祀り、別当は臨済宗建長寺塔頭、広徳院末分泉寺 同寺は明治年間に廃寺となった。
また空海(弘法大師)創建の霊場として伝える不動堂もあり別当は 浄土宗称名寺(増上寺の末寺)である。村内には1町三反余りの旗本 の御林と、22町1反余りの幕府御林が設定されており、幕府御林 に対しては山手銭を上納す。
慶応3年(1589)には大船村、岩瀬村の水不足を補うため、今 泉村に溜め井を設け散在池と称した。
慶長6年1601今泉村は東海道戸塚宿の助郷村の一つとなる。
寛永3年1625徳川家康の旗本加藤成之の所領となる。今泉を含めて1800石を領していた。
寛文11年1661内藤帯刀の妻が明月院の塔頭を再興し同院釈迦如来像を造立し、庚申塔には10人の連名がある。
貞享元年1684単連社直誉蓮人という僧(1705)が今泉村の名主永島某と共 に今泉の不動堂の建立を企画し不動の別当坊称名寺の本堂を再建した。
貞享3年1687今泉にあった専修寺という寺が荒廃していたので法誉是心という坊さんが、 再興して寺号を東光庵と改めた。
元禄6年1693此の年増上寺貞譽の時今泉称名寺が増上寺の末寺となりそれまで 寺号を円宗寺を今泉山一心院称名寺と改めた。
元禄9年1695此の年英勝寺知行のうち反銭高永別百三十六文が水戸徳川家の 願いにより御免となった。今泉白山神社と小袋谷成福寺の本堂が再建された。
今泉不動の鐘(今亡)鐘楼が江戸の信徒により寄贈された。鐘の施主は 江戸深川の海老屋六兵衛・鐘楼の施主は江戸舟町の大阪屋 庄次で鋳物師は江戸住矢部豊前慰藤原正重である。
(第二次大戦に徴収された〉
江戸期の元禄帳には村高132石9斗9升86合・鎌倉周辺48ヶ村のうち植木村に次いで、 下から2番目に積地が狭いところ。草分け百姓7軒。
宝永4年1704白山神社所有木造毘沙門天立像が平安時代後期に鎌倉仏師により修理する。
延享4年1744加藤氏5代目成像(なりやす)の代に幕府から咎めを受け改易となり 領地没収され幕府直轄の御陵となり、一部を残して酒井政栄の所領となる。
今泉称名寺の不動明王像が両国の回向院に出開帳した。
天明5年1785今泉称名寺の不動明王像が両国の回向院に出開帳した。
文化8年1802松平容象(かたひろ)の所領となる。
文化4年1821松平矩典の所領となる。
文政11年1828今泉村出身の狂歌師天の広丸(磯崎広吉)酔亀亭が江戸で没した。
墓は今泉にあり、酌む酒はこれ風流の眼なり月を見るのも花を見るのも。(広丸の代表作)享年73歳だつた。
嘉永1854熊本細川の所領となる。慶應2年佐倉藩の堀田相模守の所領となる
慶應2年1866佐倉藩の堀田相模守の所領となる
慶應3年1867大船村、岩瀬村の水不足を補うため、今泉村に溜池を設け散在ケ池と称した。
明治元年1868江川太郎左衛門の支配下になる。
明治2年1869神奈川県の管轄下となる。散在ケ池完成。
明治22年1889山ノ内、台、小袋谷、大船、岩瀬、今泉を併合し小坂村となる。
明治24年1891戸数:25 男:95人 女:95人。小坂小学校創設。
昭和2年1927世帯数:38
昭和8年1933小坂村が大船町と改称される
昭和23年1948大船町が鎌倉市に編入される
昭和31年1956大船塵芥処理場(今泉クリーンセンターの全身)が出来る
昭和40年1965世帯数:487、人口:2,055人
昭和43年1968鎌倉カントリークラブ開設
昭和47年1972今泉小学校創立。鎌倉パブリックゴルフ場開設。
昭和48年1973今泉清掃工場設立
昭和56年1981岩瀬中学校創立。今泉、今泉台の新町名発足。
今泉 世帯数:694、人口:2,273人。 今泉台 世帯数:1,825、人口:6,290人。
昭和57年1982散在ケ池森林公園完成。
昭和58年1983県立大船高校創立。
昭和62年1987今泉さわやかセンター開設。
平成26年2014今泉 世帯数:787、人口:1,948人。 今泉台 世帯数:2,085、人口:4,947人。

【謝辞】 平成26年4月23日 NPO法人 鎌倉ガイド協会「今泉の史跡散策」資料を参照して加筆


  

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